ドラマ&コミック リエゾンにはない現実
リエゾンの隣に心理相談室があったら…
佐沢椅は、けだるそうに今日も起きる。「臨床心理士」という資格で専門家を名乗ってはいるが、朝起きるのを面倒に感じるのは他の人と同じである。しかし、朝は決まって5歳の息子がベッドに飛びのった勢いで、そのままお腹に着地して覚え立ての発車メロディーで起こしてくるものだからずっと寝ているわけにもいかない。
こんなに寒い朝ではあるが、保育園に送るまでの面倒な気持ちよりも、子どもの育ちに対する喜びがやや優先しているのでようやく起きる。足下には、電車のフィギュアが無残に遊び放り投げられ破片が散らばっている。やっぱり面倒な気持ちが勝ってくる。朝からこんなことでも揺れ動かされて気持ちが忙しい。
同時に子どもの専門家としてよぎるのは、今まで心理支援に携わってきた親への「申し訳なさ」である。自分に子どもがいなかったときには、体験的に相手の親が感じていることを本当には理解できていなかった。もちろん、専門家として冷静に考えてやれたことはあったかもしれない。たとえば、発達障害の説明をスケッチブック片手にもっともらしく説明することなどである。
けれど、「感じている」ことに基づく心理支援は、「考えること」と合わせて大事な両輪だ。なぜなら、「幸せ」、「自由」、「成長」、「発達」といったことを哲学・脳科学・心理学の世界では2000年以上も学者が考え続けているのに、一向に本質的な答と問題解決は出そうにない。
考えることだけでは、心の問題に立ち向かえないことは、先進国の日本やアメリカで、技術がすすんでも不幸な人が減ってるとはいえなそれがなによりの証拠である。どうやら、心理支援は考えて支援する理論や技法だけではどうにもならない部分があって、感じることを大切にするようなマインドストラテジーを同時に持つ必要があるのではないか。
そういう佐沢も、考えることを先行しがちで、当初、考える支援を重視していたためにその道を突き進んだ過去がある。心理学部・大学院と進み、さらに医学博士まで取得した。しかし、その後の臨床経験で心理支援は「感じる」ことも大事だとようやく気づいたのだ。心理支援の専門家でなくても人を思いやって、自然と支援できる人にとってそれは自然と気づけることなのかもしれない。
しかし、何を隠そう佐沢椅は、自身に発達の偏りがある専門家なのだ。いまでは、そんな凸凹を意識して、「感じる」ことも大事に日常と心理支援を心がけている。やっぱり息子を保育園に連れて行く前に家でゆっくり遊ぶ時間は最高だ。養育義務だとか、幸福度指数とか頭で考える世界に追われるのではなく、日常的に自分が何を感じているか、見つめる時間こそ自分を生きる原動力だ。
佐沢椅は、東京都赤羽に心理相談室を開業し、その実践を仕事にしている。今日の心理相談は、泥が触れないという5歳の男の子「ゆう君」である。感覚過敏というやつかもしれない。お母さんは、泥が触れないと、この先、友達にいじめられたり、部活に支障をきたすのではないかと心配に思っていらっしゃる。言葉にはしないが、どこかずっとその先の就職まで心配していらっしゃる気すら感じる。それが親というものだろう。
話を聞くところによると、ゆう君は以前のクリニックで院長と泥を一緒に定期的に触っていたらしい。ゆうくんはその謎の儀式を泣きながらやっていたようだが、院長は、「心配いりません。これは先ほどご説明したとおり、暴露法といって、ゆうくんの潔癖さに対する強迫観念を取り除く治療法です。」とイケボで説明されたようだ。
心は複雑なので、どんな支援が正解かわからないのがこの業界である。だから相手が受けてきた治療を悪くいうのは、こちら側が抱えている心の課題でこだわりであるので、グッと顔にも出さないように意識する。しかし、それでも自分が大切にしているのは、今や「治療法」よりも「感じる」ことに向き合ってもらうことだ。
そもそも「心配いりません。」と相手の感じていることを否定したり、子どもの心として現れている「潔癖」や「強迫観念」をウィルスと同じように取り除こうとすることこそ、潔癖で強迫観念じみていないだろうか。心の問題について、「心配いりません」と安易に方法を手渡すことは、ヒーローのように見える。しかし、相手が自分で問題を解決することの先送りになることも多い。
そんなことをいうクリニックの名前と院長名はだいたいわかっている。聞くところによると、テレビ取材を受けてから最近はドラマ化も決まって、より一層、患者さんが増えているようだ。名前が似ているところがそもそもいけ好かないし、「凸凹を大事にする」とかコンセプトすら似ているのが腹立たしい。なんとか違いを見つけ出そうとすると、卓はミュージカル界のプリンスと称されるほどのイケメンで、こっちは醜男。こっちに取材がこないわけである。
いや、実は取材の打診が来たこともある。たしか、「ある芸能人のハト嫌いを克服させるためのアドバイザーをやって欲しい」という問い合わせだった。価値観を同じくする同業者からは「テレビに出てはおしまい」と聞かされていたことから躊躇したが、やはり自分の相談室を広告したい気持ちが出てしまった。それなりに時間をかけて、支援方針を伝えると返ってきた答えは「ちょっとテレビウケしない内容なので、テレビ慣れしている先生をご紹介いただけますか?」であった。どうやら、テレビでは5分くらいで支援方針が見えて、尚且つ必ず「治る」ということが大事なようだ。30年間治らなかったハト嫌いをお茶の間エンターテイメントにするのはやっぱりおしまいである。
どうして、世の中は現実にある凸凹道を時間かけて着実に歩くことを排除するような潔癖になってしまったのだろう。泥が触れない子と醜男を許さない世界、ハッピーエンドしか許さない平らな世界の窮屈さこそ「不幸」を積み重ねているのではないだろうか。そんな例のクリニックドラマを見ている視聴者をターゲットにしているCMは、飲むと睡眠が改善されるという乳酸菌や薬のCMである。
繰り返しになるが、安易に症状を解決して綺麗な世界だけを目指すことは問題の先送りであるかもしれない。むしろ難しいのは目の前の泥を触らせることではなく、泥を汚いと思う気持ちに対して時間をかけて向き合うことである。寝れない本当の気持ちに向き合うことである。そこにも心理療法の専門性があるのに、最近では面倒なこととして後回しにされすぎているように思う。
いつか向き合わなければならない本当に汚れた自分の部分を見ないことにして、嘘をついてでも綺麗な世界を広めるくらいなら広告なんてしなくていい。お母さんからゆう君の潔癖の話と、どこか綺麗事が多い潔癖クリニックの話を聞きながら、そんなことを考えていた。そもそも本当に子どものためにサンタの格好をしているのだろうか。いや、院長がヒーローぶりたいからサンタの格好をしているんじゃないか?そこまで高まる敵意の奥底には、キラキラで潔癖な世界に憧れる自分に葛藤し、現実に不安がある自分も見えた。
現実には、目の前の「ゆう君」がこっちを見ている。自分や子どもの人生を前向きに捉えることは大事だけれども笑顔や「良い子」だからプレゼントをあげるサンタクロースの価値観を押し売りにするつもりはこの相談室にない。僕も自分ではなく、「ゆう君」の不安に向き合おうと思った。お母さんは、相変わらず心配そうではある。しかし、一感じていることも絡めて一通り話終えたようである。いまやここに居る大人は、自分の不安ではなく、しっかり「ゆう君」の不安に向き合う準備ができた。
(僕は何を聞こう。)
佐沢は今向き合うべき不安にようやく正対したうえで、次のことをゆっくり訪ねた。「ところで、ゆうくんは泥を触りたいの?」泥を触る練習を今日もしなきゃいけないと思っていたであろうゆう君は、びっくりしながらも、「えっと、触れるようにならなきゃいけないと思うけど、できることなら触りたくない。」個性的なイントネーションでしっかりと自分の感じていることを言葉で返してくれた。
プリンスでも醜男でも凸凹とかそんな簡単に割り切れる言葉ではない。ゆうくんの心の中にある複雑な形をした言葉や気持ちを時間かけて聞き始めよう。
そう感じた。
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